スターリン夫人ナージャが自殺した1932年からスターリン自身が没する(脳血栓)1953年までの20年間、
スターリンを取り巻く ソビエト連邦の幹部、家族の詳細な歴史。
資料出典のページだけでも170ページもある翻訳1200ページを超える大作。
(本文より)
1941年4月14日、松岡外相がソ連との不可侵条約に署名すると、スターリンとモロトフはほとんど熱狂的な興奮を見せた。
まるで、自分たちが独力でヨーロッパのあり方を変革し、ロシアを救ったかのような喜びようだった。
スターリンは感極まって言った。「考えていることを率直に口にする外交官はめったにいない。
タレーランがナポレオンに言ったという有名な言葉に『外交官の舌は内心を隠すために道具だ』というのがある。
しかし、我々ロシア人、いやわれわれボルシェビキは違っている・・・」。
条約の締結を祝う宴で、スターリンは珍しく羽目を外し、モロトフとシャンペンを痛飲し、松岡とともに泥酔いした。
宴会は午前6時まで続いたが、松岡はその頃には「汽車まで担がれて行かなければならないほど酔っていた。
私たちが立ち上がるのがやっとだった」。スターリン、モロトフ、松岡の三人は突然歌いだした。
松岡外相を見送りにヤロスラフスキー駅に集まった各国の外交官はスターリンの酔態振りを見て仰天した。
スターリンが駅頭まで客を見送るのはこれが初めてだった。
ヒトラーがまもなくソ連に侵入するという情報を得て、準備が遅れている不安からか異常なスターリンの行動だった。
日本の不可侵条約が相当嬉しかったのだろう。
(その後、日独伊同盟を結び、この年12月7日には日本は真珠湾を奇襲する)
20年間、2000万人が死に、280万人が強制移住、180万人が強制収容所で奴隷労働。
ベリヤ、マレンコフ、モロトフ、ミコヤン、ジダーノフ、フルシチョフなど政治局とスターリンとの駆け引き。
スターリンは、完全無欠な機会便乗主義者、忍耐強い陰謀家、超神経過敏、複雑な策謀を巡らす天才、
猜疑心強く被害妄想者。
(本文より)
参謀長官ワレンスキーが報告を怠ったことがある。スターリンは叱責の手紙を書いた。
「既に3時30分になるが、君は報告する気にもなっていないようだ。時間がないという言い訳は聞きたくない。
ジェーコフも前線にいて君と同様に多忙だが、彼は毎日の報告を欠かさない。君とジェーコフの違いは、
ジェーコフは規律を守るが、君は守らないという点にある。これは最後の警告だ。
今後一度でも君が義務を怠るようなことがあれば、参謀省庁を解任して最前線に送るぞ。」
慎重に形式を守るマレンコフは決して報告をサボることはなかった。
しかし、同じように几帳面なジターノフでさえ、時には戦闘の指揮に追われて報告を怠り、譴責を受けることがあった。
スターリンは独断で行動をする部下に対しては常に警戒心を抱いた。
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