『シュンペーター伝』 トーマスK・マクロウ一灯舎(本文600頁 注釈170頁)
 

革新による経済発展の預言者の生涯(1883年-1950年)「創造的破壊」を世にひろめた。

プラハの南方120kmトリーシュ(人口4400人)で生まれ、繊維工業を創業していた父親が31歳で不慮の死亡。
母親ヨハンナはシュンペーターの将来を考え、特権を獲得する決意を固め、1888年、トリーシェから483km、
ウィーン南西224km離れているドイツ系人口15万人の美しい都市グラーツへ長距離列車で向った。
ヨハンナは30歳年上の年金暮らしで裕福なジークムント・フォン・ケラーと結婚。
ほどなくウィーンへ引越し。シュンペーターは、裕福な学業生活を送り、その後ウィーン大学で1901年から1906年、
経済学を学ぶ。卒業後、ウィーンからイギリス、エジプトカイロへと徘徊。
イギリスで、1907年、36歳の美人で冒険好きな12歳年上のグラディス・リカード・シーヴラーと結婚。
シュンペーターが初めて米国に行くことになり、グラディスはイギリスの実家に戻る。グラディスは、生涯離婚することなく、
再び戻ることはなかった。
1926年11月5日、シュンペーターがかつて住んでいたウィーンのアパート管理人だった家族の娘、
20歳年下の美しく若いアンナ・ヨゼフィート・ライジンガー(通称アニー)と両親の反対を押し切って結婚する。
ボン大学で教鞭をとることになり人口7万人の美しいボンに転居し新生活に入る。42歳にもなって22歳の労働者階級
の女性にどうしようもなく恋してしまった。アニーは結婚1年の1926年8月3日、子供の誕生時、死亡。
その年、母、妻、新生児を失い茫然自失。アニーに対する永続的な崇拝は生涯続く。
やがて、ボンの邸宅とハーバード大学に移ったシュンペーターのヨーロッパの仕事を管理し、
献身的に尽くすミア・シテックルと性的な関係に陥る。ミアの結婚願望に、アニーのことがあり、結婚はしない。
1933年、ハーバードで経済学を学び、学者となったロメーヌ・エリザベス・ブーディ・フィルスキーと出会い、
恋愛関係に。エリザベスから優柔不断、気分の揺れ、投げやり、憂鬱症と公然と指摘を手紙で受け、結婚を決意。
1938年8月15日、ニューヨークで結婚。非常に賢明な決意だったことが後で明らかになる。
(シュンペーターの大作『資本主義・社会主義・民主主義』出版は彼女の功績が大きい。
彼女がいなければこの本が世に出ることはなかった)

シュンペーターは「創造的破壊」という有名な用語を発明した。
「国内外の新しい市場の開拓と、職人の店や工場から大企業組織への発展は、生物学の用語を使えば、
工業の突然変異と同じ過程を示している。それは経済構造を内部から休みなく革新している。
古いものを普段に破壊しながら、新しいものを普段に創造しているものである。
この創造的破壊の過程こそ資本主義の本質的な事実である」(破壊がなければ成長は止まる)。
資本主義世界で企業家が果たしている役割りは非常に重要であることも指摘している。
シュンペーターの企業家は「私的な王国の夢と意志」。「それは、通常は家族企業という王朝のことであり」、
「さらに支配する意志、戦い、自分が他人より優秀であることを証明し、成功の果実ではなく成功そのもののために
成功しようという衝動を持っている」「最後に、創造し、物事を成就する、あるいは単に己のエネルギーと才能を使う
という喜びがあり」「困難を求め、変化のために変化をさせ、冒険と喜びを見出す」。
企業家は取り付かれたように革新的な優位性を追及する。産業の将士。(現状を破壊し、新たな創造を求める
強力な意思がなければ成長はなく、経済成長はないとする趣旨を「創造的破壊」という言葉で述べている)