1888年、ニーチェ44歳。以後ニーチェは死の年(1900年)まで11年間狂気の闇に生きた。
破天荒な自伝。「なぜ私はこんなに賢いのか」「なぜ私はこんなに利発なのか」「なぜ
私はこんなによい本を書くのか」から始まるニーチェが書いた11編。1969年1回目の印刷。
2012年57回目の印刷(改訂版)。
『反時代的考察』四篇から。
第一の攻撃。ドイツ的教養を容赦のない軽蔑の目で見下していた。それは意味もなく、
実体もなく、目標もない単なる「世論」に過ぎないと(本人はドイツ人)。
第二の攻撃。学問のやり方に潜む危険。生を蝕む毒、要素を暴露。非人間的な歯車と
メカニズム、作業者たちの「非人間化」と「分業」という誤った経済学は病んでいる。
第三、第四の攻撃。「帝国」「教養」「キリスト教」「ビスマルク」「成功」などと
称する一切のものに軽蔑の目を向ける。
『人間的なあまりに人間的な』では、危機の記念碑とニーチェは書く。この書は抜け目な
くて冷やかで、過酷で嘲笑的と見られるだろう。だが、高貴な趣味をもつ一種の精神性が
根底に潜んでいるとニーチェ。この書は1876年に出版。ヴォルテールの死後100年。そこ
に意味がある。ヴォルテールは何よりも精神の貴族である。そしてワーグナーについて。
ワーグナー崇拝者がワーグナーの主人になってしまった。口を開けばドイツの芸術、ドイ
ツの巨匠、ドイツのビール!ドイツの「美徳」で飾り立てられたワーグナーに会うに及ん
で、憤激に我を忘れた。哀れなワーグナー!なんというところに落ち込んでしまったのだ。
せめて豚の群れの中に走りこんだのであればよかったのに。
「ドイツ帝国」建設の土台になった「精神」をことごとく批判。ドイツ嫌い。
『人間的なあまりに人間的な』4から。
わたしの父(牧師)から困った遺伝、つまり短命という定め。病気がわたしを徐々に助け出
してくれた。病気のおかげで、わたしは決裂とか、暴力的で不快な手段とかは、一切とらず
にすんだ。わたしはそのころ人からの好意は少しも失わず、かえって今まで以上に好意を受
けることになったくらいだ。同様に、病気はわたしの習慣のすべてを完全にひっくり返して
しまう権利をわたしに与えた。病気は忘れることを許し、病気から、わたしは嫌でも静かに
寝込んでいること、何もしないでいること、待つこと、忍耐強くしていることという贈り物
を受けた。それはつまり、「考える」ということなのだ。
『曙光』偏見としての道徳についての考察から。
一切はつまるところ神の手によって統べられていると信ぜよ。聖書という一冊の本が人類の
運命における神の導きを知恵について究極の安心を与えてくれると信ぜよ。人類はこれまで
最悪の手によって掴まされていた。出来損ないども、腹黒い復讐の念に燃えるもの立ち、い
わゆる「聖者」ら。こういった世界誹謗者と人間侮辱者たちによって支配されてきた真実を
明るみにする。僧侶の欲するところは、まさに全体の退化、人類の退化に他ならない。
ニーチェはポーランドの血を持つドイツ人。反キリスト教、反道徳、反ドイツ、反哲学、反
理想主義で、人間の持つ本性と自然を力説している。あまりにも病的な生涯だった。
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