『レニングラード封鎖』 マイケル・ジョーンズ 白水社

 


ヒトラーの包囲攻撃に耐えた900日、市民の犠牲者100万人のうち、餓死者80万人。
ナチス・ドイツの残忍な「人体実験場」と化した大都市が苦悶に喘ぐ。
空襲、厳寒、カニバリズム、死の恐怖に、市民はいかに立ち向かったか。
生存者の取材から「英雄と悲劇の物語」真相に迫る。

1941年9月16日、ドストエフスキーとレーニンを生んだ都市レニングラードを封鎖せよ、
それがヒトラーの命令だった。封鎖が解かれたのは1944年1月15日。
ヒトラー「ペテルスブルグ、長きにわたりアジアの毒液をバルト海に吐き出してきた
悪の温床は、地表から消え去らねばならない。この都市はすでに封鎖されている。
われわれに残っているのは、それを爆撃し、砲撃し、水源と電力を破壊すること、
その上で、生き残るのに必要なもの一切を住民に与えないこと」。
「ペテルスブルグ市を地表から削りとることを決断した。ソビエト・ロシアの敗北は、
この大都市が将来存在するために理由はなくなる。この都市を透き間なく封鎖し、
あらゆる口径の放火と絶え間ない空爆によってこれを跡形もなく破壊すべし。
たとえこれによって降伏を要請する声が出てくるようになっても、これは拒否。
この戦争においてわれわれは、たとえ一部にせよ、この大都市の人口を維持することに
関心を持ってはならない」。この命令が非人間的な地獄の世界を生み出した。
何時間も並んでやっとのことで手に入ったパンを奪われた母親。奪われたパンを取り戻す。
娘の命がかかっていた。かっとなって彼女は男の喉を掴んだ。「彼は地面に倒れ、
私も一緒に倒れこんだ。男はうつぶせになりながら、パンの塊の全部を一度に口の中へ
押し込もうとした。片手で私は男の鼻をつかんで横へ引っ張り、もう片方の手で彼の
口からパンをむしりとろうとした。男は逆らった。だが、だんだん抵抗は弱くなった。
遂に私は、男が飲み込めなかった残りの全部を取り戻すのに成功した」。

封鎖でますます悲惨になるレニングラードの生き残り証人。
2月、レニングラード封鎖の6ヶ月目。人々が死んでいく。飢餓と寒さが生活全体を麻痺させている。
交通と通信の手段がすべて止まっている。人々は最も基礎的な文化的便宜を奪われた。
光、水、電話、ガス、これらはすべて遠い伝承の世界へ去ってしまった。通りに2時間もいれば、
20人ほどの孤独な死者、そして死体をギリギリまで積上げた荷馬車あるいは自動車数台に出くわす。
闇市での食料の値段は天文学的だ。人々はあらゆるひどいものを食べている。家具の膠(にかわ)の
煮こごりから死体の柔らかい部分を切り取ったものまで。人々は野獣化し、完全な憔悴、絶望に追い
込まれている。生活は一種の悪夢となった。
8歳の少女、ターニャ・ウートキナ。ターニャは古代エジプトのミイラのようだった。彼女は老婆の顔
をしていた。手足はスパゲッティのように細かった。彼女が生き延びると思うものは誰もいなかった。
「実際、いつ死んでもおかしくなかった。筋肉は残っていなかったし、静脈を見つけられなかった。
医者がブドウ糖を注射しようとしたが筋肉は残っていなかった。下痢が続いていた」。しかし、
やがて私たちはターニャがベッドで起きあがるのを目にした。やがて立ち上がり、よろめきながら
歩き出した。みんなが駆け寄るとにっこりと微笑した。18歳、エレーナ・マルチラ。2月の初め、
エレーナ・マルチラは1日6、7度も気を失った。彼女には殆ど力が残っていなかった。杖の助けを
借りてようやく歩くことができた。まだ18歳に過ぎなかったが、外見は老婆のようだった。
外に出ると、彼女が出会うのは生き残っている人よりも死者のほうが多かった。ある夜、どうしよう
もなく横になりたい衝動を感じた。その衝動に屈したら二度と起き上がれないだろうと直感した。
「ベッドに行くな、危険だから」。「もしこのまま死ぬのなら、画家として手に絵筆を持って立派に
死なせて」と思い、自画像に熱中した。